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機関紙-自治体のなかま-

トピックス - 全国の青年とのつながりを実感 〜復興への道のりは険しくても 力を合わせれば必ず乗り越えられる〜


全国の青年とのつながりを実感 〜復興への道のりは険しくても 力を合わせれば必ず乗り越えられる〜

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お知らせ
 2011/6/17 10:44

5/26(木)〜30日(月)、自治労連青年部の呼び掛けで、青年ボランティアが取り組まれ、全国から約25人が参加しました。大阪自治労連青年部から2名が参加しました。現地での活動報告です。

被災の実相に絶句 危機管理について考え直す契機に

大阪自治労連青年部 部長 八尾 高志

初日は8時に新大阪を出発しのぞみ号で東京へ。東京で東北新幹線に乗り換えてやまびこで一関へ。大阪から6時間かかりました。一関からバスに乗り40分かけて宿泊場所の久留美旅館へ。本来は自治労連がボランティアセンターとしている陸前高田市にある「鈴木旅館」という所に宿泊する予定でしたが、そこが満室だったので一関市にあるここの旅館に泊まることになりました。バスから旅館までの車窓は想像していたものとは違いました。参加者のほとんどの人が言っていましたが、「あちらこちらで家が半壊・全壊しているのでは」と思っていましたが、そんなことはなく、外見はまったく普通でした。

 ここの宿は満員で宿泊者は仮設住宅を建てるなどの工事の人がほとんどだそうです。ここの宿泊場所では震度6強で2階部分は屋根の一部が崩れ落ちたり、トイレが一部使えなくなっていました。外見は普通でも、中は損壊しているのが分かりました。この日は夕食を食べて、参加者で交流して就寝しました。ちなみに旅館ではご飯は出ませんので、弁当やコンビニでのおにぎりでした。

 翌日はまず宿泊場所から車で約50分かけて、陸前高田市にある自治労連のセンターへ移動。そこで今日のボランティアの内容を聞きいざ出発。ここのセンター周辺も一見普通でしたが、徒歩で海側に歩いて行くと、その景色は一変します。近くにはJR大船渡線の線路がありましたが、途中でその線路は途切れなくなっています。津波がここまで来て押し流されていました。津波が来たというのは瓦礫を見れば想像つきますが、周りは山で海はまったく見えず、こんなとこまで津波が来るとはとても想像できません。ちなみにこの場所は海から約5、6km、車で約10分の距離です。

 今日の行動は、その線路の近くにある瓦礫を集め、後日瓦礫撤去するときにスムーズにいくようにというものでした。なぜそれをやったかと言えば、地元の人が「いつまでも瓦礫が散乱していたら気分が落ち込む」と言っていたので、とりえあえず撤去はすぐに出来なくても集めておこうということで、行いました。瓦礫には電車の信号機・なんだか良く分からない鉄くず・衣類など様々です。一日その行動を終えて、その後車で陸前高田市の沿岸部を見に行きました。沿岸部に近付くにつれて道路わきには山のような瓦礫や積み上げられた車などが延々と続きます。市役所・病院・駅などがあった都市部では、原形の面影はまったくなく一面瓦礫があるだけです。陸前高田市の沿岸部の一部は松原公園があり何万本という松があったそうですが、今は一本だけ残っておりその一本は「奇跡の松」と呼ばれています。カーナビで以前何があったかは確認できるが、現実との違いに愕然とするとともに、ここでたくさんの方が亡くなっていると思うとつらくなります。街を一望できる中学校へ行くと運動場は仮設住宅があり、体育館は避難所になっていました。その後再び車で50分かけて宿泊旅館に戻り就寝。

翌日又50分かけて現地に行き、1日田んぼのゴミ掃除などを行い旅館へ。翌日は朝から雨模様。センターへ行くと雨で危険のため作業は中止。僕は京都自治労連のメンバー達と一緒に車で陸前高田市役所(仮庁舎)へ。庁舎の入口には「生存している職員」という張り紙が貼ってあり、手書きで氏名が書かれていました。又、行方不明者の張り紙などもありました。直接陸前高田市役所の職員から話は聞けませんでしたが、2日目に聞いた岩手自治労連の方の話だと、陸前高田市の職員数は約250人で内約50名が死亡。非正規職員を合わせると約80名が死亡。保健師に至っては8名中7名が死亡。保健師の人たちは、地震後担当している住民が心配になり、家庭訪問していた所、津波に飲まれ亡くなったそうです。

市役所を後にし、宮城県の気仙沼市に行きました。気仙沼はフカヒレなどで有名です。漁港は船や車がひっくり返っていたり、店や家が倒壊したり浸水したり大変な状況です。おそらく海の中にもたくさんの瓦礫があり、それの撤去にも時間がかかりそうです。漁港ではヘドロなどの匂いが混ざり合い悪臭が漂っていました。瓦礫の所々には札が立てられており、○と書いてその上から×が書かれています。○はここに遺体があり、×は遺体搬送完了という合図だそうです。気仙沼を後にし、工程が全て終了し大阪に帰りました。

3日目に陸前高田市の隣町の山田町の組合員から話を聞きました。「震災当初は住民も生きているだけでよかったと思っていたが、その後生活していくなかで様々な要望が職員に寄せられる。その中で職員はまさに不眠不休で職務にあたっており、非常に心身ともに疲れる。現在労働組合として、当局と団体交渉をしている。震災後、勤務時間という概念がなくなり、昼夜を問わず働いてきたが、一度ここできちんと整理したい」ということでした。組合としても本来であればこの大変な時に団体交渉はしたくないが、このままずっとこの状況というわけにはいかず、交渉に踏み切ったとのこと。その組合員の経験によれば、本来であれば震災が起こる前に「超過勤務」についてきちんと当局と取り決めをしといた方がいい。いざ何か起こった後に交渉するのは本当にしんどいと言っていました。各自治体も今後どんな災害が起こるか分からないので、そういう時の職員の保障をきちんとしとく必要があると感じました、そういう保障がなければ、本当に献身的に住民のために頑張る職員であっても、長くは続かないでしょう。

今回のボランティアを通じて感じたことは

  1. 現地での瓦礫の量は想像以上でどれくらいの年月で撤去できるだろうか。そもそも瓦礫を撤去できる施設がどれくらいあるのだろうか
  2. この震災を契機に自分たちのライフスタイルやエネルギー政策を根本的に見直す必要がある。
  3. 全国からたくさんの組合員がボランティアに来ており、元気がでた。その中でも青年がたくさん参加し、色んな話が聞けた。今までも全国の青年とは話をしてきたが、今回は初めてみる顔もたくさんおり、色んな刺激を受けた。
  4. この間市町村合併などで職員数が大幅に削減。さらに公務員攻撃によりさらに削減。これでは本当に住民の生活を守ることはできない。公務員という仕事は本当に大事な仕事であり、その仕事に誇りを持って働くためにも、給料や労働条件などの大幅な改善が必要である。又、非正規職員が増大しているので、ただちに正規職員を増やすことが必要。
  5. どこの自治体でも防災の街づくりを今こそ真剣に考える必要がある。「お金がないから」という理由でやらないということがないように、財政措置も含めて議論していかなければいけない。特に職員はきちんと防災の訓練をしておく必要がある。

など、色んなことを考え学びました。この震災の復興は長期になることは間違いありません。ボランティアや支援も今だけではなく長期にわたって行うにはどうしたらいいか考えなければいけません。今回自分の目で見た場所が、5年・10年後どういった街になっているのかを機会があれば見に行きたいと思いました。

想像以上に劣悪な環境 復興へほんの少しでも力になりたい

大阪自治労連青年部 副部長 熊谷 一会

 震災によって大きな被害を受けた人々や街のことを知った時、家族や親戚、友人の安否を心から願ったのと同時に、現地に行きたい思いでいっぱいでした。そしてこのボランティア派遣の取り組みを知った瞬間「今がチャンスだ」と思いました。私に何ができるか分からないけれど、あるだけの力を出して、精一杯がんばろうと思って、27日夕方に大阪を出発しました。

 28日の朝、バスで陸前高田市に向かいました。山をいくつも越えて行ったのですが、窓の外には緑の田畑が見え、自然豊かな景色が広がっていました。震災があったことが嘘のような、何事もなかったかのような景色。そして、自治労連の拠点である支援センターに向かう道のりに入った途端に、景色は一変。ついさっきまでの景色はどこへやら、果てしなく広がる大地には緑色が全くなく、建物もない。街がない。テレビで毎日観ていたのに、驚きは隠せず唖然としてしまいました。「ついに来たんだ…」大きく息を吸って、気合いを入れ直しました。

 支援センターに到着。午後からの作業に合流しました。内容は田んぼに流れ込んだ瓦礫を撤去すること。撤去と言っても、どこか持っていけるような場所はないので、土手に積み上げます。雨が降る中レインウエアに長靴、軍手にマスクを装着して作業しました。マスクをすると呼吸がしづらく、作業するには辛いのですが、マスクなしではそこに立てないほどの何とも言えない臭いが充満しているのです。磯の香りと生臭い魚の臭い、ヘドロの臭いが混ざり合ったような臭いでした。海が近くにあるのかと思えば、津波にあった痕跡のある田んぼしか見えません。この地域に住んでいた人はまさか津波がここまで来るだなんて想像しなかっただろうと思います。

 田んぼには衣服の布や着物の帯、釘のささった板やトタン板、瓦、ひっくり返った船も乗り上げていました。田んぼの泥の中から写真や子どもが描いたであろう絵が出てきた時には、胸がつまる思いでいっぱいでした。

 作業を終えて支援センターに到着。まずお風呂に入りました。お湯はボタンを押してもちょろちょろとしか出ません。お湯のありがたみを感じました。ちなみにお風呂は無料で開放しているので地元の方々と一緒にお風呂に入ります。「どこから来たのー?」「あら〜、そんな遠いところから〜。嬉しいねぇ」と話しかけてくれて、疲れも吹っ飛び、元気をもらいました。

 
 夕食後は青年交流会。始めに岩手自治労連の佐藤委員長からお話があり、それから参加している青年たちの紹介がありました。青森、秋田、東京、長野、静岡、京都…と普段関わることのなかった方々と交流ができ、つながりができたことが嬉しかったです。

 29日。今日もがんばるぞと思っていたのに、昨晩からの大雨が原因で作業中止。そこで京都の方々と被災地の視察に行きました。まずは給食センターに行きました。ここには、津波の被害にあって、機能しなくなってしまった陸前高田市役所に代わって、災害対策本部を置いています。入口を入ってすぐのところに市役所職員の名前が数十名、手書きで書かれていました。連絡手段がないので、こうして生存者の確認をしているそうです。この後は気仙沼市に向かいました。何とか車が走れる仮道路はあるものの果てしなく瓦礫で覆い尽くされていました。潰れた車が積まれている駐車場、廃墟となった建物、吹っ飛んだ橋、そして海辺の瓦礫の上にはカモメがたくさん飛んでいました。どうやら津波の影響でなるべく陸の方にと、カモメが瓦礫に巣を作っているそうです。(ここもまた鼻につく嫌な臭いがします)

 信じられないような情景を見て、本当に復興できるのかな…と不安になりました。当たり前の生活が瞬時になくなってしまった地元の方々は、大きな絶望感に襲われただろうと思います。それでも現実を受け止めなければならない。「がんばろう!」と言われても、前を向かねばならないと思っていても、そう簡単に気持ちの整理ができることではないだろうと感じました。

 今回実際に現地に行かせてもらい、再度支援に行きたいと思っています。そして数年後、復興した街や地元の方々の笑顔を見に行きたいとも思います。

 また被害の大きかった山田町の職員である山崎さんより「市民それぞれの要望を聞いていかねばならず、勤務時間なんてあってないようなもの。寝る間も惜しんで働きどおしだ。」と震災当日から今までの公務員としての働きを聞きました。そして「何かあってからでは遅い。緊急時の働き方、時間外勤務について、当局と話し合っておくべきだ」ということも聞きました。自分たちの自治体を守る手立てを前もってうっておく大切さも知りました。

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