自立をめざす都市自治体フォーラム- 分権と協働によるまちづくりを考える - |
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都市自治体における「自律」の課題と展望 |
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大阪市立大学大学院教授 加茂 利男 | |
●「平成の大合併」顛末記 きょうの私の話は平成市町村合併のなかで、合併せずに自立の道を選んだ小規模自治体と、もっと大きな地域的な単位と、そして少し角度をかえてみれば、大都市の地域における都市自治体と、もっと小さな区域との間の関係がたいへんよく似ているところがあるのではないか。そういう考え方にたち、少し前向きに平成の大合併を総括することで、前に進むんでいく道があるのではないかと思っているわけです。 平成の大合併の顛末について、さきほど重森さんからお話がございました。合併した自治体、合併しなかった自治体、そして人口1万人以下の小規模自治体で合併しなかったところが約500ということで、いってみれば政府の目標は半分ぐらいしか達成されなかった。それだけ日本の自治体の執拗なまでの自立への意欲というのがあったのではないか、と私は思っているわけです。ただ平成の大合併の問題は終わったわけではありません。これからもせめぎ合いが続いていくでしょうが、いつまでも合併が是か非かという話をしている段階ではそろそろなくなってきたのではないか、と私は思います。 自立の道を選んだ自治体は、自立という選択のうえにたち、財政危機や人口減少の時代の中で、どうやって自治体を運営していくのか。このことを性根を据えて考えていかなければならない。そしてまた、合併した自治体も財政的にはあと何年間かすれば、合併しなかった自治体と同じように苦しい状態になることは予測されています。ほんとうのどこまで身のある自立が達成できるということを、合併した自治体も考えなければいけない。 大都市圏の自治体は、今回の合併ではそれほど大きな話はなかったのですが、これからの大都市は、三位一体改革という行財政改革のなか、だんだんと財政的には窮迫していく。ひょっとすると農山村の小規模自治体よりも、大都市自治体のほうが早く財政再建団体に陥ることは十分にあり得ることです。そういう意味で、大都市自治体が、平成の大合併の中で、合併の道を選ばずにあえて自立を選択した農山村の小規模自治体から一体何を学ぶか。このことが大変重要なテーマとなってきます。 平成の大合併は終わったわけではないけども、いろんな意味で一応区切りがついた段階で、われわれは少し頭をフォーマットし、これからの自治体のあり方について考えていく必要があるのではないかと思います。 きょうの集会は「地域内分権と地域間協働」というテーマで、私の課題は「都市自治体における自律の課題と展望」ということになっています。平成大合併の中で、合併の道を選べなかった小さな自治の単位と、それからもっと大きな自治の単位との間の関係、大都市における自治体全体と小さな生活圏の関係、これらは意外に共通性があり、その共通性からこれからの日本の地方自治について考えていきたいと思っています。 日本だけではなくて、いま多くの国で、自治体とは何か、自治の区域とは何か、ということが広く議論されています。私は昨年から今年にかけてドイツ、フランスに行き、市町村合併、小規模自治体のことを調べてまいりました。少なくともドイツとフランスでは、自治の単位、自治の区域、自治体の役割をめぐって新しい議論が起こっていることを感じました。 日本の平成市町村合併は、実際には財政的な動機からスタートしたものであります。総務省が書いたリーフレットには「生活圏域が広くなり流動化し多元化している。そういう時代の中で小さな区域の中で地方自治を行うことは無理だ」とあります。 大阪周辺で言いますと、大阪市と地続きの堺市や守口市などは、全体が市街地になっていてどこかが境目かというのが探さないとわからない。その境目を超えて人々は日常的に生活していることもあり、別に狭く区切らなくてもいいではないか、という考え方が合併のなかにはあるように思います。そういう意味で生活圏というのが大都市圏では非常に広がっています。 農山村は1つ1つの村、町が地理的に孤立しています。道路が発達している限りでは近くの市まで30分で着きます。ですから非常に人々の生活行動というのは流動化して広範囲となっています。そういう意味で、狭い固定的な区域で人々の生活を区切るというのは難しい。だから「小さい範囲でいつまでも地方自治体、市町村というものをつくっていくことは間尺に合わない無意味なことで、合併したらどうか。大は小を兼ねることもあり、とにかく大きな範囲の中でやる方が効率的」というのが政府の考え方であります。 同じようなことはヨーロッパでも議論されています。非常に狭い生活圏の中で行われている生活行動や公共サービス、それからグローバル化の中で、非常に広い圏域の中で行われるサービスがあります。場合によっては、日本の住基ネットみたいに窓口サービスは、別に自分がいる自治体の中で受ける必要はないし、どこでも受けられる。そのようにボーダーレス化しているなかでは、極論すれば、地方自治なんてことばを使うこと自体がもう無意味ではないか。こういう議論がヨーロッパでも起きています。 そういう意味で自治のあり方や、自治の区域をどう考えるのかということは、21世紀のたいへん大きなテーマ、といっても差し支えないのではないかと思います。 ■「基礎」自治体の考え方:基礎的自治体サービスの二層化のなかで 日本の政府の見解というのは、これまで市町村と呼ばれていた基礎自治体の仕事は2つに分かれはじめた、という考え方です。 1つは道路の整備、廃棄物の処理、上下水道、介護認定、斎場の設置、消防、大きな文化ホールの設置といった、かなり大きな規模でやらないとペイしないし、そうしないとあまり効率的でない、そういう大きなものが1つある。 もう1つは、小学校区という小さな圏域のなかでやらないと全然意味のないもの。つまり初等教育、老人クラブの集会所、保育などという単位の日常生活と非常に密着したサービスです。その2つのレベルに基礎自治体レベルの事務が分かれはじめてきた。そしてそのどっちを基本に考えるかという場合に、日本の政府は、大きいほうを基本に考えている。まず大きい自治の単位を基本にし、その中で小さい自治をやる、という考え方をとったわけです。だからそういう非常に狭い生活圏の中で行われているお年寄り、子どもさん、障害のある方、あるいはそこで日常生活をしているお母さんたちの生活圏ではなく、もうちょっと広い意味の、たとえば自動車で通勤している人たちの生活圏を基本に考える。そして、大きいサービスから小さなサービスまでフルセットで達成することができるような、そういう圏域を基礎的自治体の区域と考え、それにあわせて市町村を合併させる、という考え方をとったのではないかと思います。 要するに私たちの暮らしは客観的に言えば、大きな自治圏、小さな自治圏(大きな生活圏・小さな生活圏)に二重化した二階建てになっている。これはどこでもみられる共通の形です。その場合に上下水道からあるいは廃棄物の処理から道路からというような大きな事業と、保育、初等教育、介護という身近な事業のどっちを基におくかが問われます。 よく考えてみるとわれわれは人間であって、生きているわけです。地域で育ち、そこで学び、そこで成長し、そしてそこで老いていき、そこで亡くなるということになっている。そういう人間の生の基本的な営みというのは、割合小さな区域の中で行われているといっていいのではないかと思います。その意味から、歩いていける範囲、あるいは自転車で動ける範囲の中に、お年寄り、子どもさん、障害のある方、家にいるお母さん方、そういう人たちの生活の区域があると考えれば、それが一番基本的な自治単位であり、みんなが共同して自立して生活していくための単位であるという考え方も当然成り立ちます。 私はどちらかというと、その小さな区域を基本にし、さらにそれよりも広い上下水道、道路などのような大きな事務は二階の事務と考えるほうがいいのではないか、と思っています。 フランスは人口6000万人でちょうど日本の半分です。そこに市町村にあたるコミューン(基礎的自治体)が3万6000あります。もちろん1つ1つは小さく人口1000人以下のコミューンが実に全体の76%を占め、平均人口も1400人しかありません。場合によっては人口何十人というコミューンもたくさんあるわけです。フランスの場合、多くの人たちがこのコミューンで生まれ、そこの教会に通い、そこの村で独特のブドウの栽培法、ワインの製造法を学んで暮らしています。都市化が進んでいますので、一時パリのような大都会に出て行くかもしれない。しかし、年をとればまた生まれたところに帰ってくる。そういうライフスタイルを営んでいる人たちが多い。ただ人口わずか何百人という小さな自治体です。たくさんの公共サービスをするということはもちろん不可能です。私たちが訪れた人口400人のコミューンでは、議員さんの数が11人、職員の数が3人しかいませんでした。ですからコミューン(基礎自治体)の中でやっている基本的な仕事は、窓口、戸籍事務、建築などの開発の許認可と、保育、初等教育やお年寄りに対するコミュニティをベースにしたケアです。もちろん道路とか公共工事とか、廃棄物の処理とかは小さなコミューンではできません。従って小さなコミューンの地域では、30ぐらいのコミューンが集まって1つのコミューンの連合体をつくる。その連合体が独自に税金を集める権限を法律で認められている。独自に特別の交付金を国から与えられる。そして独自に人を雇い、職員を雇って、広域的な事務をやる。 小さな自治体でやれないような仕事を共同化することによって広域的な大きな仕事を行う。その共同化された大きな事務をサポートすることで、小さな自治体がその自立性を保つことができる。そういう仕組みをフランスはつくってきたわけです。 コミューンは神聖なものである、という考え方です。たとえば「ここは十字軍のときに○○という王様が通り、チャーター(自治の特許状)をくれたという数百年の歴史をもつ自治体である、そのコミューンを壊すなんてことはとんでもないことである」という考え方が強い。ですからコミューンは壊すに忍びない、自分のまちや村を壊すに忍びない、だからその自立性を守っていく。それと同時に大きな公共サービスもやらなければいけない。そこで何十かのコミューンがいっしょになって連合体をつくって、大きな公共サービスは共同化してやる、という考え方をとっているわけです。 いまフランスの人口の大体8割ぐらいがこういうコミューンの連合体の地域の中に暮らしている。フランスでも市町村レベルの基礎的な自治と、コミューンの連合体と、そういう二階建ての関係の中でコミューンを基礎にした住民の共同生活を行っていると言えると思います。 こういう仕組みというのは、ある意味で都会と非常に違っているようでありますが、またよく似ているところもあるわけです。人口が何万、何十万あっても、サービスの大小にかかわらず総合的にやることが自治自立の基本、という考え方が大都市圏の中では非常に強かったわけです。そういう意味で、大きな圏域の中でいろんな事務を総合的にやるための仕組みが大都市圏ではとられています。 きょうのフォーラムは人口6万人の高石市で行われ、そこに人口20万ほどの岸和田、人口82万の世田谷区、そして人口何千という自治体のある長野県、そういう方々が一堂に会して集まっています。大都市は人口密度も高いので、ある程度の規模で大きくくくり、自治をやらなければならない必然性が当然あるわけです。大都市の中で大きな自治を否定することは間違いです。1980年代、イギリスにサッチャーという首相が出てきました。そしてサッチャーは東京都みたいな大きな自治体であった大ロンドン政庁を廃止してしまいました。「こんな大きな自治体を残しておくと労働党の牙城となり、無駄遣いの温床となる。国と基礎的自治体だけあればいい」という考え方で廃止しましたが、そのためにうまくいかなくなった。大ロンドンの中には、たとえば地下鉄があります。地下鉄が大ロンドンの区域全体を走り、それを大ロンドン政庁が管理していた。ところがそれを日本でいうところの独立行政法人がやったがうまくいかなくなった。そこでいまのブレアの時代に、ロンドンを1つにまとめなければいけないという考え方で、グレーダーロンドンオーソリティ(大ロンドン市)をつくり、そこが計画、調整などを中心に行うゆるやかな政府が復活した。その政府の下で、ロンドンの地下鉄は法人から自治体直営に切り替える方向に進んでいます。 このように人口が集まっている大都市圏では、やはり大きな政府も必要ですが、ただそれだけで足りるわけではない。やはり人間ですから日常生活の中で生まれ、育ち、学び、生き、死んでいくという、そういう営みをする小さな区域もある。そういう人間のもっとも基本的な生の営みをサポートする公共サービスは、やはり小さい単位でつくられなければいけない。大都市の中でも行政は小さく分権化し、小さい単位で実行するという仕組みをつくらなければいけない。 平成大合併の中で、ということと共通性があります。小規模な自治体が残って、これが自立した状態で残るために、共同化できる事務を共同化して、自治体の連合体をつくろうという、そういう動きが出てきました。それは大都市の中で、大都市全体を運営をしていくという同時に、もっと人々の生活に一番小さな単位で、血の通った実のある事務が達成することができるよう都市の地域なりの分権化を図る。ということは、大都市のなかの分権化とそして中・小自治体がつくる共同化、この2つのことは考えてみると非常につながっているのではないか。これからの21世紀の地方自治にとっても、共通の課題というふうに言っていいのではないかという気がするわけです。ぜひその問題について大都市東京、農村の地域である長野、それから田舎か都会か分からない岸和田、いくつかの地域の方々が集まって議論をしていただければ、きょうのフォーラムがたいへん実りのあるものではないかと思います。 司会 加茂先生、ありがとうございました。つぎの講演は田中康夫知事の下、住民本位の自治体づくりをリードしておられます長野県から「長野県経営戦略局コモンズ・地域政策チームリーダー」の林宏行さんより、「地域内分権と地域間協働の構築」〜コモンズからはじまる信州ルネッサンス革命〜という、ワクワクするような題名のご講演をいただきたいと思います。 |
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-2005.5.14.- |